現在まで続くチャクリー王朝
のちにラーマ1世と呼ばれることになるチャオプラヤー・チャクリーは1782年にタークシン大王を処刑。王位を剝奪し、チャオプラヤー川に囲まれたラッタナーコーシン島に王宮を構え現在まで続く王朝の王として即位した。2020年現在まで10代の歴代王が王朝の王として即位をし、王朝の平和と安寧を維持してきた。

植民地にならなかった国
チャクリー王朝はカンボジアやラオスの大部分を掌握する強国となったが、19世紀にはフランス、イギリスによるインドシナ半島の植民地化が進みタイはその領土を割譲することで自国の領土を確保し、東南アジアで唯一独立を守り通すことができた。その後の戦争においても大きな戦火を受けることはなく、現代のような東南アジアの強国となった。

急速な近代化
チャクリー王朝統治下ではイギリス、アメリカ、フランスと通商貿易条約を締結し、絶対王政の元、行政改革や鉄道・道路の敷設、またそれを補う通信インフラとして電話や郵便などの電報事業や水道などの敷設なども含めた近代化を進めた。
チャクリー改革
それまでの旧態依然とした国家運営から近代的で統制の取れたものへ変化させるためチュラーロンコーン大王(ラーマ5世)の頃に行われた近代化政策。ラーマ5世は奴隷を解放し平民に加えた。教育分野では義務教育制度を導入した。軍事分野では陸軍を中心に近代化を推し進めた。また、地方行政においては地方権力者による委任政治を撤廃し、各県を中央政府の支配下に置く中央集権国家へと移行し、それを補うためインフラの整備も行った。
立憲革命
平民と軍人の官僚によって組織された人民党によって引き起こされたクーデター。これによりタイは絶対君主制から立憲君主制へと移行した。それまで国費の大部分を私的利用のため浪費し続けていたラーマ6世の治世と1929年に始まった世界恐慌の影響で、当時即位していたラーマ7世は官僚らのリストラを行ったことで官僚の間で不満が高まり1932年にクーデターが勃発した。
ラーマ9世
ブミポン国王は在位年数の最も長い国王として知られ、政治的混乱やクーデターが絶えないタイ王国にとってまさに安定の象徴でもあった。ブミポン国王は政治的介入をしない立場ではあるものの、暗黒の5月事件に代表されるように混乱や国の分裂を回避させ、何度も沈静化に導いてきただけでなく、農業により地方活性化プロジェクトを自ら指導などを行い、ラーマ7世以降低迷していた国民からの尊敬と信頼を回復させた国王でもあった。