ラーンナー王朝

北部独自の文化が花開いたラーンナー王朝

マンラーイ王によって1292年に建設された王朝。時代によって異なるがチェンマイなどタイ北部に都がおかれ、ラーンナー王朝と同時期に南方で繁栄していたスコータイ王朝やアユタヤ王朝とは異なる形で発展を遂げた

農業による発展

北部には肥沃な土壌が広がっており、ほとんどの地域で自給自足が可能だった。農業を中心に村が形成され、メコン川やピン川から農作物増産のため人工的に水を供給する運河を建設し、耕作していたため莫大な生産余剰があったと考えられている。農耕できる土地を開墾することも奨励されており、開墾を行ったものには免税が適用された。

独自の文字体系

ラーンナー王朝ではラーンナー文字と呼ばれる独自の文字が使われていたと考えられている。紙代わりに使用していた植物の葉が避けてしまわないように全体的に丸みを帯びた形をしているのが大きな特徴。チャクリー王朝のもとでラーンナー文字は廃止となり、現在は使われることが少なくなった。

ラーンナー王朝の建国

グンヤーン王国の25番目の王となったマンラーイは同盟や侵攻によって勢力を高めていき、1262年に首都をグンヤーンからチェンマイに移した。その後マンラーイは南へ勢力を拡大させモン族のハリプンチャイ国を征服。この信仰は南シナ海への貿易航路開拓のためでもあった。洪水などの影響により数回にわたり首都を移動させてきたが1292年にチェンマイを設立し、ラーンナー王朝の首都とした。

王朝の繁栄

クーナー王の代、1355年頃に王朝は大きな発展を遂げる。この当時ラーマン派と呼ばれる仏教を保護し、1383年、僧侶スマナテーラのためにワットスワンオークが建立された。この仏教寺院を建設したことにより仏教の一大中心地となった。ティローカラート王の代では独自の王国を持っていたナーン国とプレー国を領土に加え、ピチットへ侵攻した。また、ラーンサーン国と友好関係を結んだほか、仏教保護を推し進めた。

衰退する王朝

ティローカラート王の後に即位したケーオ王の代ではミャンマーのケントゥンに向け出兵するも敗北し、国が大きく衰退し始めていた。官吏らによる政治やクーデターなどにより政治的混乱が続いたのち、1558年にビルマ人の王朝、タウングー王朝のバインナウンによって北部から侵攻され、ラーンナー王朝は降伏を宣言する。その後ビルマは1774年にチェンマイが陥落するまでラーンナー王朝を占領し、その支配下に置いた。

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