真臘国

クメール人の原始国家

扶南国の属民と考えられているクメール人は、北のチャオプラヤー川からムン川渓谷を伝ってメコン川に到達したと考えられている。真臘国は扶南国の影響を吸収し作られた独立国家であった。550年頃は扶南国の従属国であり、その60年ほど後に独立を成し遂げ、最終的には扶南国を占領、人々と文化を吸収していった。

活動領域

東南アジアの大陸部(半島部)の中心部、現在のカンボジアの一帯。この地域の民族であるクメール人は、ベトナム南部の扶南がメコン下流の海岸部で活躍したのに対し、メコン川の中流域の山岳部で活動していた農耕民であった。

王国の建設

クメール人は6世紀以降有力となり、7世紀に扶南を滅ぼし、クメール王国を建設した。7~8世紀ごろの真臘は、メコン下流域の扶南を滅ぼし、現在のベトナム領コーチシナを含む範囲を支配していた。

国家の成立

王都イシャナプラはカンボジア王国中部のコンポントム州プラサートサンボー群に築かれた、現代のサンボー・プレイ・クック遺跡群である。王都が築かれる以前の真臘はラオス中部以下、プノンペンより北のメコン川沿いを拠点としていたという記録がある。南シナ海を望むメコンデルタを舞台に海洋貿易で栄えた扶南に対し、真臘はメコン川とその支流であるトンレサップを舞台として農水産業で栄えた。真臘は始めこそは扶南の属国としてされていたが、建国から半世紀ほどで宗主国の扶南を滅亡させ、その文化や民を取り込んでインドシナ半島最大の国家へと膨れ上がった。

国家分裂、滅亡

しかしながら、真臘は建国から200年足らずで滅亡を迎えることとなった。その主要な原因の一つが、国家分裂である。真臘国は628年に扶南国を滅亡させたが、それによって急激に領土が拡大し、国内の勢力は南北に二分されてしまったのである。北はラオス南部のチャンパサック県を中心とした陸真臘、南はメコンデルタを中心とした水真臘へと分裂し、陸・水真臘の間には勢力争いが絶えなかったという。そして、真臘滅亡の直接的原因となったのが、当時インドネシアのジャワ地域で隆盛していたシャレーインドラ朝による侵略であった。シャレーインドラ朝による侵略によって王を殺害された真臘は、774年から802年までの間征服され主権を失っていた

経済活動

真臘とその周辺地域では、自給自足農業ではなく水稲農業を行い、収入を得ていた。王国は大規模な灌漑システムを維持し、貿易の大部分を占める米を製造した。 国際貿易は王国にとって不可欠であったといわれている。 主要港の遺跡では、オケオ、ローマ、ギリシャ、ペルシャからの資料、及びインドと近隣諸国からの遺物が発見されている。

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