扶南国

インドネシア半島で最初に興った国

現在タイの中部に位置するチャオプラヤー川下流域の湿地地帯は、インドネシア半島に最初に興った「扶南国(ふなんこく)」の領土であったと考えられている。この扶南国は当初、生活を生計するためにオーストロネシア語族(マレー系かチャム系民族)が海洋貿易を行っていたが、後に内陸部に住んでいたクメール人の国家となり、あとの真臘(しんろう)国、クメール王国、カンボジアとなった。

港市国家オケオ

タイランド湾に面する港オケオは東西交易の拠点として繁栄した。メコン川を利用して内陸の物資を集積し、南シナ海交易圏でインドや中国との交易を行って利益を上げるという港市国家であった。

繁栄と滅亡

扶南国は1世紀(50年頃)から500年以上にわたって栄え、一時はその勢力を西はミャンマー、南はマレー半島全域にも及んだが、7世紀(628年)には内陸で興ったクメール人の国家「真臘」に滅亡させられることとなった。

国力の増大

扶南王は山(プナム)の王の肩書きを持ち、海上交易に加えて肥沃な後背地の開発によって国力を増大させ、内陸の都のヴィヤダプラと運河で結ばれたオケオを外港とし、内陸部は沼沢や湿地を埋立て多くの水路が張りめぐらされた肥沃な耕地に造り替えられた。この肥沃な後背地の農業を背景に、外港オケオではインドや中国、近隣諸国の船を迎え入れていた

他国との交流

当時、カンボジアやメコンデルタの地には文化性を有する民族がいなかった為、海洋貿易で取り入れた文化性と経済力を有する扶南国はアンコールボレイを王都としながら、メコンデルタ地域の海岸線に数多くの港湾都市を所有する国家として発展した。遺跡や遺構からは陶器、道具類、宝石類、宝石やコインを作るための鋳物類、宗教的な像などの遺物が発掘されてる。中にはアフガニスタンやパキスタンの古代国家ガンダーラの青銅の仏頭や、古代ローマのアウレウス金貨など、西方との交易的つながりを証明する遺物も出土している。

海洋貿易がもたらした最期

扶南国は、3世紀の王ファン・シマンによって最盛期を迎えた。ファン・シマンは帝国の海軍を拡大し、扶南国の官僚機構を改善し、準封建的な制度を作り出した。彼とその後継者たちはまた、海上貿易を規制するために中国とインドに大使を派遣した。扶南国は、重商主義と商業独占の強力なシステムを確立したが、海上貿易への依存は扶南国の崩壊の始まりの原因となった。スマトラに対する貿易への移行が行われたことや、中国によって東南アジアに貿易ルートが作られたことが、国の経済的不安定、政情不安につながった。

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