シュリーヴィジャヤ王国

貿易の中心として繁栄したシュリーヴィジャヤ王国

スマトラ島東南部からマレー半島にかけて、7世紀頃から繁栄したマレー人の王国。扶南に代わって東南アジアの貿易の中心として繁栄した港市国家であった。7世紀のマラッカ海峡の交易ルートを広く支配し、多くの港市国家をしたがえる交易帝国であり、東はスマトラ島のジャンビ、西はマレー半島西岸のクダないし北スマトラと、海峡の両端に2つの拠点をもっていた。

国勢と貿易

都はスマトラ島のパレンバン。マラッカ海峡を挟んだマレー半島とスマトラ島、さらに最盛期の7世紀にはジャワ島やタイなどにも勢力が及んだが、自国領には主たる産物はなく、中継貿易を行っていた

隣国との関わり

7世紀に東隣のジャワ島に起こった同じ仏教国のシャイレンドラ朝とは関係が深く、連合したこともあった。その後、1025年には南インドのタミル人国家チョーラ朝の侵攻を受けて次第に衰退し、14世紀にジャワ島東部にマジャパヒト王国が起こり、その勢力が及ぶとほとんど消滅し、シュリーヴィジャヤの支配権は15世紀にイスラーム教国のマラッカ王国に継承される

連合王国の誕生

マラッカ海峡周辺の地域に外側から最初に強い文化的影響を与えたのはインドを起源とするシヴァ信仰(のちのヒンドゥー教)であり、また、スマトラには仏教が425年頃までには伝来している。西暦550年頃、シュリーヴィジャヤ王国の起源となる勢力となったのはメコンデルタにあった扶南であり、それがかつての属国真臘国におわれ、タイのバンドン湾にあった盤盤に亡命政権を作り、のちに赤土国を吸収し、「室利仏逝」として670年に唐に入港した。のちの三仏斉はジャンビとケダーとチャイヤーの3国による朝貢を目的とした連合王国である。

三仏斉の結成

ジャンビとケダーとチャイヤーの三国による「三仏斉」という連合政体が9世紀末に結成された。また、「室利仏逝」は741年の最後の遣使ののち消えたが、インドネシアの地域から中国へ遣使をしたのはジャワ島の「訶陵」という勢力であった。この「訶陵」はシャイレーンドラ朝シュリーヴィジャヤ王国であり、シュリーヴィジャヤ・グループから集めた朝貢品をもって768年に朝貢を再開した。ベトナム中部沿海のチャンパー王国は「占城」として三仏斉と対抗していた。その朝貢も南宋の財政難から12世紀末には市舶司制度に切り替えられ、ほぼ10世紀にわたる朝貢制度はいったん幕を下ろし、三仏斉も自然消滅となった。

イスラム教と王国の関わり

スマトラ島ではアラブやインドの商人との接触を通じて広まったイスラム教が広まっており、イスラム教徒であるアリ・ムハヤット・シャーがアチェ王国を建国した。13世紀の後半までに、同島北部のサムドラ王国の君主はイスラム教徒に改宗した。同じ頃、シュリーヴィジャヤ王国はクメール王朝の、後にスコータイ王朝の属国になった。1377年にはジャワ島中東部のマジャパヒト王国によって征服されたが、1414年までにマレー半島のマラッカに逃れたシュリーヴィジャヤ王国の最後の王子パラメスワラがイスラム教に改宗し、同地でスルタン制が始まった。このマラッカ王国は1511年8月24日にポルトガルによって征服された。

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